* イナクロ設定(アニメ準拠)
* 円堂さんが総モテ前提
* 基本は豪虎と円夏と一秋

以上、大丈夫な方だけどうぞ↓



午後二時半の未亡人




「うん、実はね、一之瀬くんと付き合ってるの」
 木野が早々にそのレースから降りていることを知ったとき、豪炎寺はまず、悲劇が未然に防がれたことに安堵して、それから何とも形容しがたい気分になった。
 どんな流れで彼女の口からそれを聴くことになったのか、会話の経緯は覚えていない。親しい人間ばかり集まって賑やかな酒席のあとのことだ。世話焼きの木野はいつものように、すっかり酔い潰れた間抜けな男どもの面倒をみてやっていた。
 その日、豪炎寺がいまひとつ酔い切れていなかったのは、前の用事が長引いて、途中からしか参加できなかったせいだった。適当な台数のタクシーを呼ぶ電話を掛け、解散までのわずかな間。ほとんど素面同士にみえて、いや、それでも互いに酔ってはいたのだろう。
 ――俺は、お前が円堂を好きなんだと思っていた。言わなければいいことをつい口にすると、木野は困ったように笑った。
「そういう時期もあったかな」
 きっとそれほど古くないはずの感情を、彼女はそう言って遠い過去へと葬った。
「一之瀬くんはね、……私じゃないと、だめだから」


 ◆◆◆


 豪炎寺の知らない記録によれば、円堂守は交通事故で死んだのだという。
 ボールを追って道路に飛び出した子供をかばって、自分が車に轢かれたそうだ。いかに架空の死因とはいえ、なるほど、それは絵に描いたような彼らしい最期だった。

 過去への干渉の影響を受けないでいるせいで、近頃の豪炎寺は周囲と認識が食い違う。さまざまの事態を覚悟しているつもりではあったが、いつの間にか親友がいきなり死んだことになっていて、さすがに冷静ではいられなかった。
 もちろんそれは、正しい歴史ではないことを知っている。こみ上げるのはただ焦りと怒りだ。ほんらい死んでいないもの、死ぬべきでないものの死を悲しんだりするわけにはいかない。同居人の悲痛な顔を見ても、ゆえに豪炎寺は慰める言葉を持たなかった。
「……本当に、どうして、こんなことに」
 泣きはらした目へさらに涙をにじませながら、虎丸は同じ嘆きを何度も繰り返している。彼の手に握られているのは昔の写真だった。もう十年も前、イナズマジャパンがFFIに優勝して、最高の栄誉を勝ち取ったときの。豪炎寺とともにフィフスセクターに居たころから、虎丸はよく懐かしんでその写真を眺めていた。シンプルなフレームに収められたそれは、いまでは二人がともに暮らす部屋の一角に飾られていて、幸せなばかりの思い出の記録のはずだったのに。
 ここ一週間ばかり豪炎寺は日本を離れていて、家に戻ってきたのは今朝のことだ。この時間軸では円堂が死んでから既に数日が経過しているらしいが、虎丸は円堂のことを(世界中で豪炎寺の次くらいに)慕って尊敬していたから、この程度はおかしくない反応ではある。
「虎丸、……もう泣くな」
 そう言って豪炎寺は、ソファに座ってうつむいている虎丸の頬へ手を添わせる。あいつが死んだりするものか、こんな歴史が本当なわけないだろう。過去の歪みについての正確な把握はまだだ、迂闊にそう言ってやることもできず、ただ唇で目尻の涙を拭ってやる。虎丸は申し訳なさそうに口元を歪ませた。
「……ごめんなさい。俺がこんなに泣いてたら、あなたが泣けなくなっちゃうのに」
 その心配は微妙に的を外していたが、言葉の意味を考えてみれば胸は痛んだ。
 豪炎寺がフィフスセクターで聖帝の座に就いていたころ、虎丸はいつも、豪炎寺のかわりに感情を外に出す役だった。組織の人間としての行動に心を痛め、学校を潰す、選手を痛めつける、そんな指示には納得できないと唇を噛む。豪炎寺の前では気丈にふるまってみせながら、虎丸が隠れて泣いていたのも知っている。
 管理サッカーの象徴、聖帝イシドシュウジ。その側近の位置にあるには、虎丸の正直さはあまりに危うかったと思う。だが実のところ、彼が漏らす憤りも悔しさも、ほとんどは豪炎寺修也の本音でもあった。
 やがて革命が終わっても、あのとき預けてしまった心は、まだ少し、持っていかれたままでいる。



 どうやら自分は葬儀に出ていないらしかったので、形だけでも未亡人を弔問することにした。
 先に電話で連絡を入れると、暫定未亡人の円堂夏未は思ったよりもずっとしっかりした声で、かえってそれが痛々しかった。
 いまだ残暑の厳しい午後、長袖の喪服に身を包めばじっとりと汗が噴き出してくる。尋ねた円堂邸では冷房が効いていた。構えてまだ数年の新しい家に、似つかわしくない線香の匂い、霊前に供えられた花と愛用のグローブ。
 モノクロの遺影で笑う男は、豪炎寺の中では当然まったく死んでいない。仏壇に手を合わせるのは虫唾が走る思いだったが、それを避けたいなら夏未にはそれなりの説明をしなければならないだろう。
 円堂守は取り戻せる。すぐにそう伝えて希望を持たせてやりたくはあっても、いまの時点で彼女を巻き込むのは早計のように思われた。そのかわりのもどかしい沈黙。
 戸籍上ではまだ独身の男がひとり、若い未亡人と長く話し込むのは外聞がよくない。豪炎寺はすぐに円堂邸を辞そうしたが、夏未はそれを引きとめた。せっかく来てくれたんだもの、お茶くらい飲んでいってちょうだい。
 やけに広く感じるリビングで静かに向き合って、出された菓子は手作りだろうか、ゼリーの中に飾り切りの果物が咲いている。見た目はじつに見事だが、味についてはいつも円堂から泣き言を聞かされていた。
「あなたが葬儀に間に合わなくて残念だったわ。本当に急なことだったものね」
「……ああ、」
 そのあとが続かない。やれやれ、俺ときたら、自分ではない人間を演じていたころの二枚舌はどうした。もう一生分の嘘を使い切ってしまったのか、歯の浮くような悔やみはなかなか言えないでいる。
「ねえ、豪炎寺くん。あなたと個人的に話すのなんて、いったいどれくらいぶりかしらね。変な感じだわ。私達が結婚することを発表した日以来? あの日はみんなで集まって、馬鹿みたいに騒いでいたでしょう。あなた、一人だけ遅れてきて」
「そうだな、あれは覚えている。ちょうど俺が到着したところで、円堂がお前との婚約を発表して、みんなパニックになったんだ」
「そう。それで、内緒話でもするみたいに、円堂をよろしく頼む――って、私、あの日まったく同じことを三人から言われたのよ。最初が風丸くんで、次が鬼道くん、最後にあなた。笑っちゃったわ。円堂くんって本当に愛されてるのねって思って。……いま考えてみれば、その後のあなた、失踪するのをしばらく待ってくれたんでしょう。本当はもう、革命のこと、決めてたのよね」
「……どうだったかな。忘れたよ」
「あんまり辛気臭い顔するのはやめてちょうだい。あなたが来てくれたんだもの、あの人だって喜んでるわ。……お菓子、遠慮せずに食べてね」
「ああ、いただきます」
 そればかりはどうやら不可避らしい。豪炎寺は覚悟を決め、目の前の凶器をスプーンで掬う。表情が渋いのはあくまで悲しみのせいだと信じてほしいものだ。味覚への暴力はなかなか刺激的な体験だったが、噛まずに飲み込めば、まあ、なんとか。
「……ねえ、豪炎寺くん」
 ふたたび呼びかけられて豪炎寺は顔を上げる。しかし、声をかけておきながら、夏未はどこか遠く、視線を窓の外のほうへ逸らしていた。
「私、ずっと思っていたことがあるの。円堂くんは、私じゃなくてもよかったんじゃないかって」
「……?」
「いいのよ、わからないふりはしないで。だってそうでしょう。昔から彼のことが好きな人はたくさんいたし、彼は誰でも好きになれてしまう人だった。彼に真剣に片想いをしていた人を、私、何人も知っているわ。円堂くんは、その誰ともとびっきり仲が良かった。思うんだけど、もし私以外の誰かから先に結婚を申し込まれていたら、彼は断らなかったんじゃないかしら。もともとサッカーのことしか考えてない人でしょう? それなりに彼と気が合って、彼が愛するに足る相手でさえあれば、伴侶なんて誰でもよかったのよ」
 ぞっとするような内容を淡々と語り、午後の日差しが射し込む部屋で、円堂未亡人は微笑んだ。
 なぜ今、彼女はそんな話を?
 わかるようでもわからないようでもあって、豪炎寺は何も言えないでいる。
「……言っておくけど、プロポーズは彼からだったわよ。でもね、そんなの、ちょっとしたきっかけの問題だったんじゃないかって。彼は本当に誰にでも優しくて、それでいて自分に向けられた好意には疎かったから、いつのまにか諦めてしまった人も何人もいたわね。みんな、それぞれに幸せをみつけたり、他の人に恋をしたりして、私が残った。でも、それだけ。彼にはとても大切な人がたくさんいて、でもそのせいで、本当の意味で特別な人なんていないのよ。――いえ、ひとりだけ、運命と呼んでいいような人がいたのかしらね。でも、それは、彼の妻になることができる人ではなかった」
 そう言って彼女は豪炎寺の目をじっと見る。逃げることは許されないのだろう、まっすぐに見つめ返しながらも、豪炎寺はわずかばかり眉をひそめた。
「彼にとっての運命の人。それが私じゃないことくらい知ってたわ。でも、私はどうしても円堂くんが好きだった。彼が私を妻に選んでくれるまで、絶対に諦めなかった。彼、私を妻として大切にしてくれたわ。それで充分だった。これから彼の子供を産んで、彼と育てて、それから幸せなおばあちゃんになって。ずっとこの人の傍に居ようと思ってた」
 声は少しずつ途切れていく。最後の方は上手に言い切ることができずに、未亡人は嗚咽を洩らした。
「……愛しているの」
 彼女の頬を流れ落ちていく涙を見ながら、豪炎寺は呆然と思う。――おい円堂、お前、嫁さん泣いてるぞ。死んだりしている場合じゃないぞ。
 夏未はそうして泣きながら、しかし、それでも明確に告げる。
「豪炎寺くん。私、あなたのことが嫌いよ」
「……ああ、」
「ねえ、答えて。誰でもいいなら、自分でもよかったんじゃないか。あなたは、そう思ったことはない?」
 夏未の質問は刺すようだった。
 目の前の女は顔を覆って泣いているのに、その掌に隠された奥、ぎらりと光るのは何だろう。
 ――それは、もしかするとどこかの世界で有り得たかもしれない、同時に決してはじまりもしなかった恋の話だ。
 だが豪炎寺が答えずにいると、夏未は沈黙に耐え切れないといったように、みずからの言葉を打ち消した。
「ごめんなさい。忘れて」
 部屋に響くのは押し殺した未亡人の泣き声だ。豪炎寺は目を閉じ、深い溜息を吐く。
「そうだな、ばかなことを言わないでくれ。円堂はお前を選んだんだ。自分の妻がそんなふうに思っているなんて知ったら、あいつは泣くぞ」
 だから今のは忘れてやる。唯一無二の親友のために、あるいは、もっと多くの人間のために。
「ええ、そうね。円堂くんは、そういう人ね」
 そう言って彼女は顔を上げ、うつくしい泣き笑いの表情を見せた。
 豪炎寺はあらためて決意する。そうだ、彼女をこのまま未亡人にしてはならない。円堂夫妻は夫婦そろって幸福に生き、幸福に老いていくべきだ。
 そして彼女は、帰ってきた夫に気持ちをそのままぶつけるべきなのかもしれない。自分が円堂守のたったひとりの伴侶であることを、ほかの誰でもなく彼女を選んだということを、彼女自身がはっきりと思い知れるまで。
 豪炎寺が暇を告げるときには、夏未はすっかりいつもの勝気な美人の顔に戻っていた。


 さて、どう動いたものかな、と豪炎寺は思考する。その手首には例の腕輪が嵌っていた。俺は俺で動くとして、雷門のあの子供たちにも状況を説明してやらないと――。
 これからのことを考えながら、車に乗り込めばうだるような熱気に包まれる。と、エンジンをかけた瞬間、いつからか鳴り続けている電子音に気付いた。ポケットの中の携帯を取り出してみれば、それは同居人からの電話だった。
「もしもし、――虎丸?」
『あ、豪炎寺さん、いま大丈夫ですか?』
「どうした。何かあったのか」
『いいえ、ただの確認です。帰りは遅くなりますか? そういえば聞いてませんでしたから』
「いや、こんな格好で動き回るつもりはない。また出かけるかもしれないが、ひとまず帰る、30分もかからないはずだ」
『本当ですか? 俺、いま、アップルパイを焼いてるんです。夕飯のデザートにって思ってたけど、それなら3時のおやつですね。寄り道しないで、あったかいうちに食べてください』
「そうか、わかった」
 電話の向こう、空元気かもしれなかったが、虎丸の声は明るかった。料理でもなんでもしていれば気がまぎれるのだろう、得意気な笑みを簡単に思い浮かべることができる。まったくタイミングのいい男だ、未亡人の傷心は気の毒だが、それはそれとして肥えた舌にはあの菓子の味は毒だった。早く帰ってアップルパイが冷めないうちに喪服を脱ごう。豪炎寺はアクセルを踏み込む。車で帰るよりも自分の足で思い切り走りたい気分だったが、それは叶いそうもないことだ。


 ◆◆◆


 いつか自分も走った道、終わりのない持久走のイメージ。そのレースにはゴールらしいゴールがなく、ただひたすらに走り抜けた者が勝者と呼ばれるようだった。
 自分はたしか、走っているあいだは常に一番先頭にいて、ゴールが見えないのが辛かった覚えも特にない。いつまでだって走れたはずのその道を、走るのをやめたのは別の理由だ。
 あのころ自分のわずか後ろ、夏未と並んで走っていたはずの木野は、レースを降りたあとにこんなことも言っていた。
「一之瀬くん、私に片想いしてるとき、ずっとつらそうな顔してた。そういうのに腹が立ったのね。私を好きだっていうんなら、私の傍では笑いなさいよって思ったの。はっきりしたきっかけがあったわけじゃないけど、……どうしてかっていったら、うん、そのせいかな」
 聴きようによっては自分の意志でレースを降りたようでもあるし、まんまと降ろされてしまったような話でもある。いずれにしても、彼女は違う方向を振り向かずにいられなかっただけのことだ。
「私、いま、幸せだよ。でも私はね、一之瀬くんに幸せにしてもらいたかったわけじゃないの。一之瀬くんを、私が幸せにしてあげたかったの。だってそれは、この世界中でたったひとり、私にしかできないことなんだって知ってたから」
 なるほど、彼女の言うことはわからないでもない。同じような理由で早々にレースを降りたのは、きっと、木野ひとりだけではなかった。


 ◆◆◆


 わずか三十分足らずのドライブと追悼、三時きっかりに豪炎寺の車は車庫へ戻った。エンジンを切って車から降り、冷えた室内までわずかの距離が待ちきれなくてネクタイを緩める。どうにも息苦しい午後だ。
 いつもどおりに錠へと鍵を差し込んで、間違いのないその戸を開ける。とたんに焼き菓子の匂いが鼻先をかすめて、おかえりなさい豪炎寺さん、と同居人が穏やかな笑顔を見せた。





12.09.17

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