ビタースイート・メモリーズ



「減りましたね」
 この量を前にそんな感想を持てるのは、昔のことを彼がよく知っているからだ。イシドの前に積み上げられたダンボール箱を抱えながら、さして感慨もなさそうな様子で虎丸は言った。
 一日の業務がすべて終わったこの時間、虎丸からの報告を待ってイシドは椅子に掛けている。先ほど別のスタッフの手で運ばれてきた箱は3つ、各方面からイシドシュウジ様宛ての荷物が詰められているらしい。ここまでの運搬はご丁寧にも一人ひと箱、男性スタッフ3人がかりでのお出ましだった。イシドは思わず、そのままひと箱ずつ持って帰れ、と言いそうになって、やめた。
 入れ違いにイシドの前に現れ、呆れた顔ですぐに台車を引いてきたのは虎丸だ。中身を考えれば重いものではないのだろうが、ひとりで運べる限界は明らかに超えていた。
「昨年よりは増えている」
 述べられた事実に対して事実で答えると、虎丸もべつにその点に異論はないようで、むしろ当然といった様子で頷いた。
「そうですね。この一年、メディアへの露出も増えましたし」
 イシド様、このルックスですから、と、しかしその言葉はあくまで類推の域を出ない。そういえば昨年の今頃はまだ、虎丸はここに居なかった。
「お前は?」
 ためしに水を向けてみると、台車に箱を積み終わった虎丸は肩をすくめる。
「減ったというか、受け取りようがないですから。それはそれで寂しいものですね」
 受け取れたところであまり活用はされない荷物の話だったが、男としてはどうしてもそんな感覚だろう。
「でもいいんです、俺、母さんがわざわざ送ってくれましたから。イシド様だって大本命が居るでしょう?」
 この日、イシドが唯一まともにそれを受け取った相手のことを知っていて、虎丸は得意げな表情をみせる。実際そのとおりの話ではあり、今年もわざわざ呼び出されての手渡しだった。いまの自分には近づくなと言っているのだが、かわいい妹はどうも言うことを聴いてくれない。
「無駄話はいい」
「わかりました。では、本日の報告です」
 そうして虎丸が瞬時にまじめな顔になるのを、イシドは少しだけ残念だと思う。ここでイシドに傍仕えするようになってから、虎丸はあまり笑わなくなった。もとはあの朗らかな性格だ、いまのような軽い会話だって、まるきり消滅したというわけでもないけれど。

 2月14日はこれといって大きな事件のない日で、試合用スタジアムの改造工事、各学校へのシード派遣に関する調整、指導者人事案の作成、新年度に向けた準備は滞りなく進んでいるようだった。
「入試の結果発表を受けて、名門校に入学が決まった有望選手のリストも上がってきています。ほとんどは予定どおりですから、大きな波乱はありませんが」
「しかし大事なところだ。私が目を通す」
「はい。資料はそろえてあります」
 最後に明日のスケジュールの流れを確認し、イシドは椅子から立ち上がる。虎丸は件の台車を押してすぐ後ろからついてきた。
「これ、どうするんですか?」
 毎年のことではあるのだが、健康管理を第一にしている生活で、大量の菓子類をすべて食べるというわけにもいかない。それはイシドにとっても虎丸にとっても当然同じことで、仲間うちでは、共通の友人を通じて児童福祉団体に寄付するのが慣わしだった。サッカーが社会を動かすまでになったこの時代、プレゼントにしろチョコレートにしろ、それこそ山の如く受け取っている連中もいたが(というか、ここに居る2名はふたりともその側だったが)、施設には施設どうしでの横のつながりなどもあるようで、全国の女性たちから贈られた好意は、身寄りのない子供たちにうまく届いていたのだが。
『――やあ、久しぶり。送ってもらった荷物がさっき届いたんだ。今年も大漁だね。みんな喜ぶよ、ありがとう』
 そう言って電話口で笑う彼のことを思い出し、ひどく懐かしい気持ちになった。
 昨年は何も考えている余裕がなくて、自分ではない自分に宛てたそれらの荷物は、そのままゴミになってしまった。今年はどうすればいいだろう。答えのないままフィフスセクターの社屋を出ると、夜空には雪が舞っていた。がらがらと地味な音を立て、台車は駐車場のアスファルトの上を滑る。虎丸がトランクへ箱を積むのを横目に、イシドは先に車へ乗った。


「上まで運ぶのが大変でしょう。お手伝いします」
「…………」
 車を降りざま、労いの言葉でもかけてやろうと思ったのだが、予想どおりといえばそのとおりの事態ではある。虎丸の言葉は提案というより決定事項で、言いながら彼はシートベルトを外していた。
 ワンフロアがそのまま一世帯になっている高層マンション、広い部屋での生活はふだんイシド一人だ。駐車場から二人で一度ここまで上がり、虎丸はもう一度階下へ降りて戻ってきた。
「改めて、お邪魔します」
「悪かったな。それも適当に置いてくれ」
 靴を脱ぐ彼に曖昧な指示を出しながら、イシドは、それで? と、言いたいのをまだ、待っている。
 しかし話は始まらず、かわりに虎丸は、勝手知ったる、といった様子でキッチンへ向かった。
「せっかくだから、夜食くらい作らせてください」
 言いながら既に畳まれたエプロンを広げている。ここへ虎丸が寄っていくときにはよくあることだ。これも今日は、最初から決められていた流れであるようだった。イシドは当然自分でも食事には気をつけているが、それでもこの家の台所は、自分よりも虎丸の手になじんでいるのだろうと思う。
 イシドは虎丸の勝手に任せてソファに掛け、持ち帰った書類を読みながら、キッチンの音を聴いている。手元のページをめくる一瞬、ふと視線を上げてカウンターの向こうを見れば、虎丸はこちらに気付いて軽く首を傾げた。なんでもない、とイシドは首を振る。
 なんでもない、こんなのがまるで当然のような気がするけれど、――なんというか、自分は、ずいぶんと。
 イシドはふたたび書類に視線を落としながら、ひそかに自嘲めいた表情を浮かべる。感情の揺れをぜんぶ相手のせいにして、そのまま押し倒してやりたいような、不埒な気分だ。

 軽い食事を終えたあと、テーブルの上をあらかた片付け終わってしまうと、虎丸は今度は別のことが気になる様子をみせる。イシドは虎丸にそこまでさせたいとは一切思っていないのだが、虎丸のほうでしたいと思っているらしいのが問題だった。彼の視線が向いた先は、床の空きスペースに積み上げておいた、先程の箱だ。
「中身の整理も手伝いますか?」
「そこまでお前にさせる気はない」
 虎丸の返事はなかったが、今回に関しては無理に手出しをしたいわけでもないようだった。広いソファに少し離れて座って、微妙な間。
「イシド様」
「なんだ」
 それでは帰ります、明日も早いですから、というあたりが通常の展開ではある。
 しかし、それで? と、イシドはまだ待っているのだが。ためらいがちな沈黙のあと、イシドの顔を横から覗き込むような姿勢で、虎丸はようやく切り出す気になったらしかった。
「実はあの、……俺のもあるんですけど」
 そう言って、ここへ至るまで手ぶらのふりをしていた彼は、ポケットからそれを取り出した。深い藍色の小さな箱に、真紅のリボンが結ばれている。
 やっとか、とイシドは口元を緩める。訪れた感覚はデジャヴではなく、きっと本当に知っている。恥じらいを含んだ上目遣いも、不安と期待で染められた頬も。出会ってからの十年というもの、昨年一年だけを欠いて、毎年のように繰り返し見てきた風景だった。
 ――好きな顔だ。
「わかった。貰っておく」
 イシドが差し出した手にその箱を渡しながら、しかし、虎丸は不可解なことを口にした。
「誤解しないでくださいね。これ、義理ですから」
(なんだと?)
 イシドはわずかに眉を寄せる。虎丸はイシドの顔を見て、確かめるように言い直した。
「いつもお世話になっている聖帝に、感謝の気持ちの義理チョコです」
「……?」
 何かの冗談だと思ったのだ。
 このあと別にまた何か出てくるのかとか、最悪の場合、本命プレゼントは俺です――みたいな、頭の痛いことを言われるのではないかとか。
 けれど、真意を測りかねているイシドに向けて、虎丸は寂しそうに笑った。
「俺の本命は、今年は渡せそうにないので」
 どういう意味かと考えて、思い至るまでは一瞬だ。切実なことを訴えられているのがわかり、イシドは静かに息を呑む。
「俺のいちばん大切な人は、いまは行方がわかりません。去年も渡せなくて残念でした。でも、来年にはきっと」
「……そうか。渡せるといいな」
「はい」
 虎丸はまだ少し寂しそうに、同時に決意をもって頷く。
 言ってやりたい言葉がある気がするのだが、うまく形にできないでいた。かわりにイシドは、そっと虎丸を抱き寄せる。
 年に一回、この相手から貰えて当然だと思っている、予定調和のような行事だ。こんな関係になる前から毎年、どう見てもこれは本命ですという態度でチョコレートを渡されて、自分はそれが正しいと信じて受け取ってきた。
 まさかいまさら義理だなんて、プライドが許さない、というのが正直なところだ。来年の今日は、絶対にまた本命を受け取ってやろうと決めた。いや、それは最初から、そうでなくとも決めていたことではあるけれど。
 イシドに促されるままソファに沈みながら、虎丸は面白がるように言う。
「でも俺、イシド様のことも好きですよ」
「それで義理か? いい度胸だ」
 こんな予定調和の不在を、去年の自分は、寂しいなんて思っただろうか。聖帝の座に就いた当初、虎丸が隣に居なかったころのことはもう思い出せない。イシドは虎丸を、最初から傍に置こうと思っていたわけではなかった。それなのに彼は、誰にも言わずにはじめたことを、真意などなにも知らないままでも、身ひとつで追いかけてきて。
「良かったら開けてみてください。ちなみに今年は媚薬入りです」
「……おい、虎丸」
 いや、ちなみにって。今年はって。おまえ。イシドは顔をしかめて虎丸を睨んだ。
「お前、人にそんなものを飲ませて、万が一にでも薬物検査に引っかかったらどうする気だ?」
「受ける予定がありましたっけ?」
 今だからです、と虎丸は平然と言ってのける。
 人に渡したはずのものを勝手に取り返し、虎丸はその手で真紅のリボンの結び目を解いた。文句を言うのも面倒で、イシドは好きにさせている。
虎丸はするりと手袋を外して、手作りであろうそれをひと粒、イシドの口へそっと押し込む。柔らかい種類のチョコレートだ、舌の先からココアのほろ苦さが広がった。
「ハッピーバレンタイン」
 間近で甘く囁かれる。
 どうせここまでが想定内の、考えてみれば最初から頭の痛い話ではあった。イシドは適当に流されたふりで、いかがわしいチョコレートを飲み下す。
 ふとその瞬間、3倍返し、という恐ろしい単語が頭をよぎったけれど、雪降る夜の熱に紛れて、じきに消えた。



12.02.12

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