人魚姫のキス



 着いたら起こせ、とイシドがまぶたを閉じてから、15分ほどで車は目的地に到着した。停車スペースの中で静かにエンジンを切り、虎丸は助手席で眠るイシドに視線を移す。
「イシド様、起きてください」
 薄暗い車庫には無人の乗物がひしめいて、あたりは夜更けの音がする。外路を行き交う車がたてる空気のうなり、遠く聞こえる地下鉄の声、それから夜そのものの音。そして虎丸は薄ぼんやりした灯りの下で、愛しい人の寝息に耳をそばだてている。
「……起きないなら、キスしちゃいますよ」
 そう言いながら、起こす気などまるでない優しさで囁く。シートベルトを外して斜めに身を乗り出した。眠りに沈むイシドの表情はあまり安らかとは言い難かったが、虎丸は、それでも彼を美しいと思う。
 童話の眠り姫みたいな、――俺の、世界でいちばん誰よりもきれいな人。本人にそんなことを言えば怒るか、鼻で笑われて終わるかのどちらかだろうというのはわかっているけれど。
 覆い被さるようにして、彼の唇に自分のそれを押し当てた。起きているときにするのと同じ、温かくてやわらかな唇だ。だがひどく疲れているのだろう、イシドは未だ目を覚まさなかった。虎丸はただその寝顔を眺める。
 時の止まった城で王子を待っている、俺の美しい眠り姫。けれど、彼を起こせるのは俺のキスじゃない。知っている。昔からずっと、知っている。
 ――くだらない、と自嘲して、まばたきをひとつ、虎丸は意識を切り替えた。今度はもっとはっきりとした声をかける。
「聖帝、起きてください」
「……ああ、すまない。着いたのか」
「ええ、残念です。起きてくれなかったらキスしちゃおうかと思ってました」
 犯した罪をなかったことに、冗談の裏へ隠したものは何だったろう。勤務中だと叱られるかと思ったけれど、意外にもイシドの表情は和らぐ。少し遠いような目をして、彼は指先で虎丸の唇に触れさえした。けれど――――、
「まだ駄目だ」
「え?」
「こんなところで呪いが解けたら困るだろう。もとの姿にはまだ戻れない」
「はい……?」
 虎丸がその意を汲めずにいると、イシドは呆れたように笑った。
「まさかおまえが王子のつもりか?」
 わずかに眉をそびやかし、彼は車のドアを開ける。虎丸は目をしばたきながら慌てて後ろに従った。
(…………ああ、)
 過去、妹が幼かったころにはいつも絵本を読み聞かせてやっていたという彼は、御伽噺には虎丸よりも詳しいらしい。
 理解したときには会話はとうに打ち切られ、眼前にあるのは聖帝イシドシュウジの背中だ。なるほど彼は、恋した王子の姿ではない人なのだった。
 じわじわと胸が熱くなり、打ち明けそびれたキスの余韻を持て余す。脳裏にはふと、かえるのイシド様、というタイトルが思い浮かんで、虎丸は思わず噴き出した。








12.05.23

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