【01】 フィフスセクター本部の建物は完成からまだ1年も経たない真新しさで、試験会場はやや風変わりな内装だった。 部屋は扇の形をして、固定された長机の一列ごとに、地下のほうへと階段状に沈んでいく。床と壁全体が金属質な灰色で、その無機質さはどこか近未来を思わせる。普段は会議室か何かに使われているのだろうが、それにしては薄暗い場所だ。窓がないうえに天井の明かりもわざと減光してあるらしい。かわりに足元から間接照明が施され、淡いブルーの空間が演出されている。机の列の脇を十五段ほど降りたところが部屋の底。演台が設けられており、その後ろには壁面埋め込み式のスクリーンがあった。 虎丸はその一番前の列に掛け、時間が来るのを待っている。部屋の中では彼と同様、幾人もが落ち着かない様子でまばらな位置に座していた。 虎丸の時計では予定の時刻を三十秒ほど過ぎたところで、左前方のドアが音もなく開き、黒いスーツを着た男が室内に入ってくる。かつ、かつ、と室内に響く革靴の音。 「こんにちは。試験官の黒木です」 鋭い目をした長身の男だ。彼は演台でそう名乗り、それから事務的に用件を告げた。 「当機関フィフスセクターの人事採用試験は、本日が最終選考となります。事前に通知したとおり、まずこれから実技試験を行い、その後、通過者のみに個人面接を実施します」 語る言葉は丁寧だが、口調の裏に人を食ったようなところがある。虎丸は黒木の顔を見ながら、緊張というよりは警戒をもって続きを待った。 「それでは、実技試験の内容を発表します。PK戦で子供から点をとってください。シュートを撃つチャンスは3度与えられますが、たった1点でかまいません。あなたがたが達成すべきことは、それだけです」 きわめてシンプルな課題だったが、部屋の後方からは疑問の声が上がった。 「待ってください、この格好で?」 困惑をみせる受験者に、黒木は面白がるように言う。 「ええ、そのままの格好でどうぞ。なにしろ相手は子供です」 黙ってそれを聴きながら、虎丸はわずかに眉をひそめた。わざわざ動きにくいスーツでボールを蹴れなんて、どこまで真面目に実力を見る気があるのだろう。今日、この部屋に集められているのは十数人といったところで、何人採用するつもりかは知らないが、その内容ならまず負ける気はしなかった。 黒木に連れられ、受験者たちは実技試験を行う会場に移動する。重い金属のドアが開くと、地下の空間にサッカー場が広がっていた。 天井は案外と高く、地上2階くらいのあたりまであるだろう。壁の上のほうにいくつかガラス窓があり、その向こうには部屋や通路が見えている。 フィールドでは全員中学生くらいだろうか、揃いのユニフォームを着た少年たちがサッカーの練習をしていた。コーチと思しき男に黒木が声をかけると、少年たちは動作をやめ、めいめいに集まってくる。その大半は練習を切り上げる様子で去り、幾人かが残る。残った子供から点をとるのが今日の試験ということか。 靴だけはここで履きかえるようにと指示があり、虎丸も持参してきたシューズに足を通す。人工芝を踏んだ瞬間、フィールドの空気に身体がざわめくのがわかった。こういう奇妙な状況でもだ、虎丸の身体を流れているのはそういう血だった。 少年サッカー法第5条の遵守を使命とし、少年サッカーの発展に寄与する。フィフスセクターとはそういう機関であるらしい。具体的に何をやっているのか、それだけではまるでわからない漠然とした理念だ。公的機関ではないにせよ、国から補助が下りているような、お堅い組織でサラリーマン。虎丸からすれば、つい最近までは考えたこともない進路だった。 そもそも就職しようにも、こういうところの求人となるとたいてい大卒が条件だ。虎丸は高校を卒業してすぐプロ選手になってしまったので、大学を出るどころか入ってさえいない。ふつうに考えれば受験資格すらなさそうなものだ。 ただこの組織特有の職種、サッカー指導者としてなら、あるいは。人事採用の募集要項、「コーチ・監督職 受験資格:高卒以上 サッカー経験者」の欄を見た瞬間、これしかないと腹を括って、慌てて履歴書を書いたのはつい先月のことだ。 しかし、この職種の受験資格が高卒以上となっていたのは、こうしてみれば、プロ引退後の選手の採用などを見込んでいたからだろう。既に数度の選考を重ね、最終試験まで残った顔ぶれを見渡せば、まだ二十歳にもなっていないのは虎丸ひとりのようだった。 そして迎える実技試験、ゴールを守る位置に立っているのは、いかにも子供だ、キーパーらしい大柄な体格の少年だった。ポジションについた一人のほかに、交代要員らしい少年が脇に2名。 黒木が言う。 「こんな子供から、大人が案外ゴールを奪えないのです。しかし、このくらいのことができない人材はフィフスセクターには必要ありません。我々は、彼らを管理する立場なのですから」 ふと、黒木と目が合った。というよりは、その目線はおそらく、はっきりと意識して虎丸に合わせられたのに違いなかった。 (……馬鹿にしている) 虎丸は睨むような視線を返した。目的の段階に達するまでに目立つつもりはなかったので、試験には普段と違う格好をしてきている。髪はセットせずに下ろしているし、似合わない伊達眼鏡もかけてみた。それでも名簿に書かれているのは本名だ。そう平凡な名ではないから、ここまでの試験で存在を気づかれてはいるだろう。 早く、早くとじりじりしながら、PKの順番を待つあいだ、ほかの受験者のプレイを眺める。必殺技を出す者もいたし、そうでない者もいた。驚いたことに――というべきか、いずれにせよ少年達は、受験者が放つほとんどのシュートを止めてしまった。あまり手加減して済む話ではないようだ。 「では、次の方」 ようやく出番が訪れて、虎丸は一歩前へ進む。 「……ああ、待ってください。ここでキーパー交代です」 「はい?」 ふと見ると、一人の少年が、フィールドの端からこちらへ歩いてくるところだった。派手なピンク色の髪に浅黒く焼けた肌、そして、遠目にもわかる不機嫌そうな顔。人を小ばかにしたような横柄な態度は、年ごろ特有の傲慢さ、と言ってしまえばそれまでかもしれないが。少年は黒木の傍まで来て、さも不満そうに口をひらいた。 「黒木さん、俺が呼ばれるってどういうこと?」 「お呼び立てして申し訳ありません、大和様。ですが、これはお父様のご指示です」 「親父が?」 ふうん、と言って少年は不機嫌な顔を引っ込めたが、まだすっかり納得がいったというわけではないらしい。虎丸のほうへ品定めするような目線をよこし、不躾にじろじろと観察している。 「……どこかで見た気はする顔だな。わかった、真面目にやってもいい」 「お願いします。――では、どうぞ、宇都宮さん」 黒木が淡々と試験のスタートを告げる。 少々目にものを見せてやろうという気分になってしまって、虎丸は邪魔な眼鏡を外して地面に置いた。こんなPK、両目を瞑って蹴ったって入ると思っていたけれど。 「行きます」 ボールをめがけて足を振り上げようとした、その瞬間だ。 ゴール前に立った少年が発現させたのは、ひと目でそれとわかる火属性の化身だった。強いオーラが渦を巻き、この場の温度が上がったように感じるのはおそらく気のせいではない。周りの受験者たちからも感嘆の声が上がった。 これは、と思って虎丸は足を構えなおす。わかった、真面目にやってもいい。頭の中で反芻するのは言われたばかりの言葉だった。 どんなシュートでも受け止めてみせると信じ切り、真正面からゴールを守る。そういう姿勢は、嫌いじゃない。 けれど―――― 「はああああっ!」 気合いを込めて、撃ったのはタイガードライブだった。最近は試合で使うことこそないが、子供のころから何度も何度も繰り返し、いちばん足に馴染んだ技。それは瞬時に少年の化身を打ち破り、ボールがゴールへ突き刺さる。 「……っ!」 よほど自信があったのだろう、地面に膝をつきながら、少年は屈辱に顔を歪めた。虎丸は微笑ましいような気持ちでそれを見る。 大丈夫、俺のシュートが止められないのは、そう恥ずかしいことじゃない。正面からキャッチできるのなんて、国中探しても片手の指が余ってしまう人数だ。 ――この顔を見て、すぐに誰だかわからないような世間知らずは問題だけど。 「彼、良い選手ですね」 少々気分がよくなって、虎丸は自分から黒木に話しかけてみる。黒木は満足気に返事をした。 「その言葉、そのままあなたにお返ししましょう。実技試験の通過者には、これから聖帝直々に最終面接があります。採用後、監督またはコーチとして、どこか派遣を希望する学校がありますか」 「……いいえ」 指導者としての派遣どころか、そもそもこの組織に入ることだって本当は望んでもいないのだ。虎丸の目的はただひとつ。 面接官に、会いに来ました。 彼が姿を消して以来、両手ではもう数えきれないような回数、お前は何か知らないのか、と虎丸はあらゆる人間に訊かれた。誰もが同じことばかり、そのたび虎丸がどれほど苦い思いをしたか、失踪した本人はそんなこと考えもしないだろう。 日本サッカー界でのプロ生活にひと区切りつけ、翌シーズンからドイツへ移籍。当時の彼は、そういうことにほぼ決まっていたはずだった。その翌シーズンがはじまるまでに、どんな心境の変化が訪れたのかは知らない。彼は、誰かに事情を話すこともなく、唐突に行方をくらました。 ずっと追いかけ続けてきた背中だ。彼に出会ってからそれまでの年月、虎丸はまず猛勉強してなんとか同じ中学に入り、次は偏差値が足りなかったのでサッカー特待で同じ高校へ滑り込み、プロになった彼を追ってようやく一緒のクラブチームに入れた、と思ったら今度は海外へ行ってしまうと聞かされる、常にそんなことの繰り返しだった。よし次はドイツかと思ったはずが、どこ行きの切符をつかめばいいのか、見失って途方に暮れてしまった。 手がかりも予測の立てようもない、あてのない苦しい尋ね人。テレビの画面に一瞬映った彼を見て、思わず声を上げたのは数か月前のことだ。矢も盾もたまらずこの住所まで飛んできて、どうしても彼に会わなければと思っていたのに、姿を見ることさえもかなわず追い払われた。頭にきたので、それなら文句の言えない方法をとってやろうと決めたのだ。 玉座の上の面接官は、よく知った声と知らない口調で、手元の書類に記された名前を読み上げた。 「宇都宮虎丸」 「はい」 「十年前、FFIで優勝を果たしたイナズマジャパンの一員だ。日本代表にも選ばれているプロリーグの選手。私も君の活躍はよく知っている。その君が、いま、どうしてここに居る?」 「サッカーの、……少年サッカーの、未来のためです」 「先に言っておくが、私は君を採用するつもりは一切ない。形だけの面接になるので、そのつもりでいてくれたまえ」 そう告げる彼、聖帝イシドシュウジの顔にはあまり表情というものがない。それでもわずかに苛立っている、と、わかるのは長年の付き合いだからか。 「容赦ないですね。いえ、正直にいうと、履歴書だけで落とされるかと思っていました」 「ああ、もちろん落としただろうな。書類選考の時点で、君の名前が私の目に入っていればだが。私に報告があったときには既に手遅れだった」 なるほど、と虎丸は苦笑する。ひどいですよと内心では詰りたいような、しかしかえって腑に落ちるような、なかなか複雑なところだ。 「この組織は、腐敗しきった少年サッカー協会からようやく独立したところだ。あちらこちらで手が足りない。もっとも大事な人事採用でさえこんな手違いが起きてしまう」 遺憾がるように言いながら、面接官は虎丸のほうを見ていない。どこか遠くを見る顔で、独白めいて問いかける。 「いまのサッカーを、君はどう思う」 「……以前、あなたによく似た人に、同じことを訊かれました。おかしいことはわかっています。この国でサッカーをプレイしていて、それがわからない人間なんていません。でも、どうしたらいいのかはわからなかった。うまく答えられなくて、それからずっと考えています。そして俺には、あなたの答えがこんなことだとは思えない。俺はただ、知りたいだけです」 「君は思い違いをしている。私は君の探している人間ではない。私は、聖帝イシドシュウジだ」 「わかっています。すべてを捨てる覚悟で来ました。必ずお役に立ってみせます」 「……どうかな」 彼はそう言って言葉を切る。じっとその顔を見つめると、彼が深いまばたきをするのが見えた。強い意志を宿した切れ長の目、顔にゆるやかに落ちかかる髪。こんな状況でも以前と変わらず、虎丸は、彼を美しいと思う。 「一応、希望を聴いておこう。管理サッカーの指導者として、どこの学校へ派遣されたい?」 「どうか本部で、あなたの傍に。でなければ意味がありません」 「……もういい。面接は以上だ」 「ありがとうございました」 言うべきことは言えた――なんて、簡単に思えるほど抱えてきた気持ちは軽くない。それでも精一杯だった。 会って話をしてみても、彼が何を考えているのかなんてわからない。ただ、わかりたいと思っているのを伝えたい。それだけ願ってここに来た。 サッカーを管理しようだなんて、その発想が虎丸にはそもそも理解できない。そんな組織のトップに就いて、彼がやっていることはおかしい。おかしいとしか思えない。最初にここを訪れたときは、どうしてですか、ばかなことはやめてください、と詰りに来たのだったと思う。それから今日まで頭を冷やすのに時間をかけて、大人になろうとしたけれど、どこまで成功しているだろうか。 背後から声をかけられたのは、踵を返し、部屋を出るために歩き始めてすぐだった。 「虎丸」 「はい!」 返事をしたのはほとんど反射だ。心臓が高鳴り、瞬時に虎丸は彼のほうへと向き直る。 「おまえは昔からそうだな、実技はよくても態度で大幅に減点だ。就職試験の面接だぞ、こういうときの一人称は『私』で通せ」 「は?」 「それからそのスーツ。どこの貧乏学生だ、その色はまるで似合わない」 「はあ?」 「お前の勤務は明日からだ。服はその前に私が見立ててやる。夕方6時にここのロビーで待っていろ、役に立ちたいと言うなら私の仕事を増やすな」 「…………」 「返事は」 「はい! ――あの、豪炎寺さん、」 「何度も同じことを言わせるな。私は豪炎寺ではない。イシドシュウジだ」 叱るというよりはもはや拗ねたような声音になって、彼は大きく溜息をついた。 「私は反対したんだがな。おまえ、さっきの実技試験で、考えなしに子供に恥をかかせただろう。あれはこの組織の設立者の息子だ。相当恨まれているぞ。試験の直後、おまえを採用してまた勝負させろと怒鳴り込んできた」 「あの子が?」 「千宮路大和というんだ。あれはいい選手になるぞ」 そう言って彼は面白そうに口の端を上げる。そうだ、昔から彼は子供の面倒をみるのが好きだった。小生意気なサッカー少年なんかは、とくに。 (……豪炎寺さんだ、) じわ、と胸の奥が熱くなる。まだ何もはじまってさえいないのに報われたような気分になってしまって、ああ、6時に待ち合わせだと言われていた。どれくらいぶりのデートだろう、などと思ったりも、する。 「お前がここまでしつこいとは思っていなかった。仕方ない、こうなったらお前にも協力してもらう」 彼の言葉は再会の喜びや歓迎からは程遠い。それでも僅か、声に滲むのは満足そうな色だった。 「お前は、私の傍にいろ」 諦めるように、あるいは受け入れるように、静かに彼はそう告げた。 少年サッカー協会からの派生機関、フィフスセクター。それが何を目的とした組織であるかを知ったとき、虎丸は同時に、彼がそれまで大切にしてきたあらゆるものを捨ててしまったことも知った。 地位、名声、人間関係、自分自身の名前すら。そういう中に一緒にまとめて、自分もあっさり捨てられたのだと思っている。それならそれでかまわない。 捨てられるたび何度でも戻ってくる犬のように、彼が、どうしても捨てようのないものになってやろう。 緋色の絨毯が敷かれた階段を上がり、一歩二歩、玉座へと近づく。 「聖帝、あなたの御心のままに」 きっと滑稽な三文芝居だ。それでも、その手に忠誠のキスを落とすのを、彼は止めようとはしなかった。
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12.10.11
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