ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ



 サッカー日本代表のエースストライカー、豪炎寺修也。
 世界でいちばんかっこいいわたしのお兄ちゃん。

 お兄ちゃんに夢中な人は世界中にたくさんいて、みんなわたしをお兄ちゃんの妹として大切にしてくれる。言葉にするとちょっと変な気もするけれど、そういう事実がわたしはぜんぜん嫌じゃなかった。だってその人気者のお兄ちゃんは、わたしが生まれたときからずっと、わたしに夢中だったから。
 優秀なきょうだいと比べられるのが嫌だとか、自分自身を見てもらえないのが嫌だとか、あちらこちらで言われるような、そんな気持ちをわたしは抱いたことがない。豪炎寺修也の妹であるということは、わたしという人間を形づくるうえで絶対になくてはならないものだ。
 だって、お兄ちゃんはいつもわたしをわたしとしていちばん大切にしてくれたし、わたしはお兄ちゃんの自慢のかわいい妹でいたかったから、そのおかげで勉強だって習い事だって頑張れた。

 ただ、問題がたったひとつ。とはいっても、中学2年生くらいになるまで、わたしは自分ではそんなことに気が付きもしなかった。でも昔から、うちのお手伝いのフクさんはそのことでわたしを心配してくれていたらしい。
 いつだったか、サッカー関係の遠征でお兄ちゃんがうちを空けている夜のことだった。お父さんの帰りも遅くなる日で、だからわたしはフクさんとふたりで食卓を囲んで、女同士の内緒の話。
 仲の良かった友達にはじめて彼氏ができて、最近あんまり遊んでくれなくなっちゃったのとか、でもコイバナってうらやましい、わたしも早く彼氏欲しいなあとか。フクさんはその日もいつもの通り、にこにことわたしの話に頷いてくれていた。
「ええ、夕香ちゃんにも早く、素敵な人ができるといいですね」
 でも、それからなぜか表情を曇らせて、フクさんはしみじみと呟いた。
「……でもねえ、これを言うのは私もつらいんですけれども、夕香ちゃんはきっと苦労しますよ」
「えっ、どうして? わたし、あんまりかわいくない?」
「いいえ、もちろん、夕香ちゃんはとってもかわいい女の子ですよ。夕香ちゃんのことを好きになる人はたくさんいます。でもね、夕香ちゃんは、お兄さんがあの修也さんでしょう」
「あっ、そっか。お兄ちゃん、わたしが彼氏なんか家に連れてきたら倒れちゃう?」
「はい、それもあります」
「相手の人、怒ったお兄ちゃんに殺されちゃう? やだどうしよう、お兄ちゃんが犯罪者になっちゃう!」
「ええ、それもあるんですけどね。大丈夫です、修也さんなら殺人の証拠なんか残しませんよ。そうじゃなくって、修也さん、とってもかっこいいお兄さんでしょう」
「そうよ? 当然でしょ、わたしのお兄ちゃんだもの」
「修也さんは、サッカーが上手で、頭も良くて、上品です。性格もしっかりしていらっしゃるし、お顔立ちも整っていますでしょう。中学生のときからファンクラブがある人なんて、どこを探してもそうそういません」
「うん、自慢のお兄ちゃんよ。服のセンスがイマイチなのは問題だけど、それさえわたしがチェックしてあげれば、どこに出しても恥ずかしくないわ」
「しかも修也さん、とっても夕香ちゃんに優しいですから」
「お兄ちゃんわたしに夢中だもん」
「ええ、本当に。でもこんなに素敵なお兄さんと一緒に育ってしまって、夕香ちゃん、恋人にするのにふさわしい方を見つけることができるでしょうか。どんな人でもずっと見劣りがするんじゃないかと思って、フクはたいへん心配です」

 ――なんですって? それは夕香も心配です!

 目から鱗というのはこういうことをいうのか、まさに雷に打たれたようなひとことだった。
 わたしと同じく、フクさんもたいがいお兄ちゃんシンパの度が過ぎるほうではあるけれど、それは冗談で済ますことのできる問題ではなさそうだった。しまった、お兄ちゃんがかっこいいせいで、そんな落とし穴があったなんて。
「……いいのよフクさん。お兄ちゃんよりかっこいい人じゃなかったら、わたし、そんな彼氏いらないんだから」
「あらあら、さすが夕香ちゃんですねえ」
 わたしはなんとか気を取り直して、理屈としてはこれ以上ないほど正しいことを言ってみた。でも本当にどうしよう、お兄ちゃんよりかっこいい男の人なんて、この世界中探しても、きっとひとりも居るわけない。
 たしかにわたしは、恋愛というものにあこがれはしても、じっさい恋らしい恋なんてそれまで全然したことがなかった。でもそれがまさか、大好きなお兄ちゃんのせいだなんて。

 夕香、将来はお兄ちゃんのお嫁さんになってあげる!

 小さいころ、そう言ってあげるとお兄ちゃんが喜ぶから何度も繰り返していたけれど、たしかにわたしの理想はお兄ちゃんなのだった。
 そして言われてみれば、そのへんに転がっているお兄ちゃん以外の男の子って、なんてかっこわるくて、不潔で、野蛮で、気が利かなくて、つまらないんだろう。それまでちっとも気が付かなかった。気が付くべきではきっとなかった。
 
 それでも、わたしが彼氏にしてあげてもいいかな、と思ったことのある人が、ここだけの話、ひとりいる。学校の男の子なんかじゃなくて、お兄ちゃん経由で知り合った人だ。
 サッカーの試合の応援もそうだし、お兄ちゃんの学校の行事に顔を出したりして、わたしはお兄ちゃんのお友達にけっこう面識がある。お兄ちゃんの周りの人たちは、みんなわたしより年上で、みんなわたしに優しかった。お兄ちゃんがその中の誰かを家まで連れてくることは珍しかったけれど、彼は、その珍しい数人のうちのひとりだ。残念ながら、その誰もがお兄ちゃんほどかっこいいわけではないにしろ、さすがにお兄ちゃんが親しくするだけのことはあって、そういう人たちはみんな素敵な男の子だった。
 その中で彼がひとり特別になったのは、わたしと彼が、ある意味では似ていたからだと思う。お兄ちゃんのことが好きな人。どういう人かと訊かれたら、わたしは彼についてそう答える。ほかにもいくつか好きなところを挙げていくことはできるけど、何より同じものを愛しているという気安さで、わたしと彼の気持ちの距離は近くにある。

 だけど今日、そのたったひとりの特別な人を前にして、わたしは機嫌が最悪だった。
 夕暮れ前のカフェ、わたしの前にはケーキのお皿と紅茶のカップ、それからもう一杯分の紅茶を湛えたティーサーバー。彼の前に置かれているのはコーヒーだけだった。
 彼が連れてきてくれたのは、大通りから道を逸れ、路地裏の少し奥まったところにあるお店だった。あまり人目につかないように、座ったのも二階の奥の席。でもここは、人目を忍ぶにはちょっと明るすぎる空間じゃないかと思う。室内の装飾は白を基調に、家具は木造り、入り口側の壁は全面ガラス張りになっている。お姫様が出てくる童話みたいな雰囲気。ここに入る前にはザッハトルテかオペラ、チョコレートの味を思い浮かべていたけれど、それよりもいちごのショートケーキが似合うお店だった。
 白いケーキの乗ったお皿は小さなベリーとベリー色のソースで彩られ、ミントの葉がそっと飾られている。それから、ケーキの上には真っ赤ないちごがひと粒。
 ショートケーキの上のいちごを、わたしはいつもいちばん最初に食べてしまう。それはただの癖でしかないようなことだけど、そんな癖がついてしまったのにはわけがある。小さいころのわたしには、いちごを最後にとっておく必要なんてなかったからだ。
 今日もわたしは習慣どおり、ケーキの上のいちごを最初にフォークで刺した。よく熟れた小ぶりのいちごは甘くて、わたしはそれを口の中でゆっくりと噛み潰す。
「……こんな寄り道して、よかったの?」
「いえ、本当はダメなんですけど、特別です」
 家の近くまで車で送ってもらう途中、ケーキが食べたい、なんて本気で言ったつもりではなくて、ちょっとしたわがままで困らせてみたかっただけなのに。彼はあっさりわたしの要求をのんでしまった。
 高校を抜けてきて制服姿のままのわたしと、仕事用のスーツに身を包んでいる彼。彼だってまだ学生をやっていてもおかしくない歳で、そんな格好似合わないよと思いたいのに、全然そんなことないのさえなんだか苛立たしかった。
 わたしたちってどういうふうに見えるのかな。ここに入るとき入れ違いに出て行ったカップルも、注文をとりにきた店員さんも、そんなこといちいち考えたりはしないかしら。恋人同士にみえる可能性が高いはず、でももしかすると、わたしたちが兄妹に見えることだってあるのかもしれない。どっちもまったく見当はずれだ。わたしのお兄ちゃんも、彼が恋をしている人も、ここには居ない。
 黙ったままケーキを食べるわたしに、諭すような口調で彼は言った。
「夕香さん。あなたがあの人のために動こうとしてくれるのは、俺、嬉しいと思います。でもお願いです。危険なことはやめてください」
「お説教なら聴かないわよ」
「違います、俺はお願いしてるんです」
「一緒でしょ?」
 ケーキなんかで機嫌とろうとしても無駄なんだから。わたしがそういう態度をとると、彼は困った顔をした。
「だってずるいじゃない。自分は危険なことをしてないっていうの?」
「違うでしょう、危ないって充分わかっているから――」
「お兄ちゃんの話はしてません」
 冷ややかな目で睨みつけると、彼はわたしが素直になれない理由に気付いたようだった。彼は気まずそうな様子で黙る。
「……嘘。ごめんなさい。今回はわたしもうかつだった」
 謝りたくなんかなかったけれど、たぶん、今日のことは全面的にわたしが悪い。
 勝手な行動が裏目に出て、フィフスセクターの監視役に因縁をつけられた。雷門中の子たちのおかげでうまくその場を逃げられたからよかったものの、あの後、もし彼に助けてもらうことになっていたらと思うと心臓がつめたくなる。わたしを逃がすためであれば、彼は自分の立場なんか考えもしなかっただろうから。
 そうだ、わたしが腹を立てているのは本当は自分に対してで、彼に怒るなんてやつあたりだ。わかっていても悔しかった。
「いえ、夕香さんが無事でよかったです。あなたに何かあったりしたら、ほんとに俺、あの人に殺されちゃいますから。どうか助けると思って、気をつけてください」
「うん、考えてあげる」
 もちろん考えるだけだけど。いくらかは上向いた気分で、わたしはケーキの最後のひとくちを飲み込む。生クリームの中には半分にカットされたいちごが埋まっていた。カップには少し冷めてもおいしいアールグレイの紅茶。友達を連れて来たくなるようなお店だったけど、今日は紅茶の二杯目をあきらめることにして、彼よりも先に席を立った。


 虎丸さんがお兄ちゃんの行方を突き止めたことを知ったとき、わたしはとりあえず半分くらい驚いて、残りの半分くらいは、やっぱり、と思った。
 お兄ちゃんが世間から姿を隠した当初、連絡先を知っていたのはわたしだけで、彼はそのことになんとなく気付いていたと思う。それでもわたしは、それを彼に教えてあげるわけにはいかなかったし、彼もわたしを問い詰めることはしなかった。周囲の誰よりも憔悴し、狼狽し、必死でお兄ちゃんを探している彼に嘘をつくのは辛かったから、彼が自力でお兄ちゃんにたどり着いてくれたのは、わたしにとってはとてもありがたいことだった。
 でも、……今となっては。
 わたしよりよほど近いところで、わたしよりずっとお兄ちゃんを支えられる立場の人。そんな彼を前にちょっとむくれてしまうのを、わがままが言いたくもなる気持ちを、わかってほしいと思うのは、――それこそただのわがままだって、ちゃんと知ってはいるんだけど。

 虎丸くんは(以前、わたしは彼のことをそう呼んでいた)、世界で唯一、わたしと張り合えるくらいに、お兄ちゃんのことが好きな人だ。
 同じ人を大好きなわたしと彼は、お兄ちゃんを取り合いになってもおかしくなかったはずなのに、そんなふうには全然ならなかった。
 だって彼は、お兄ちゃんの愛情をわたしと競う気なんて最初からこれっぽっちもない。わたしのお兄ちゃんに世界中の誰より憧れているという後輩は、どうしてか、お兄ちゃんとほとんど同じだけ、とびっきりわたしに甘かった。

 虎丸くんと最初にふたりきりで話をしたのは、わたしがまだ小学生のころ、お兄ちゃんの学校の文化祭に行ったときのことだ。それまでにもサッカー関係のことで姿を見たことはあったから、当時わたしは彼の顔と、お兄ちゃんになついている後輩だということくらいは知っていた。その文化祭の日、お兄ちゃんにはクラスの屋台の店番があって、それで一時間ばかりのあいだ、彼はわたしと一緒に雷門中の校舎を歩いてくれたのだ。
 彼はお兄ちゃんの話ならなんでも興味があるみたいだったから、わたしは調子に乗って家のことをたくさん話した。
「ねえ、虎丸くんは、お兄ちゃんとどんなお話をするの?」
「うーん、やっぱりサッカーのことかな。たまに家のことを話してくれるときもあるけど、それは夕香ちゃんのことばっかり」
「そうなの?」
「うん。だから俺、夕香ちゃんのこと実はけっこう詳しいよ」
「本当に? じゃあ、わたしが好きな人、当ててみて」
「それは自信ある。豪炎寺さん……、えっと、お兄ちゃんでしょ」
「ふふふ、せいかーい!」
 そのころわたしが小さな子供だったように、彼だってべつに決して大人ではなかったのだけど、いま考えてみれば、彼はあのころから女の子の扱いが上手な人だったんだと思う。たったの一時間でわたしたちはすっかり仲良くなって、つまらないはずの待ち時間はとびっきり楽しかった。
 店番を終えたお兄ちゃんが、すまなかったな、と虎丸くんに言ったとき、お兄ちゃんも虎丸くんも、それからわたしとお兄ちゃんはふたりきりで文化祭を廻るんだって思っていたはずだ。
「じゃあ、お兄ちゃん、虎丸くん、行きましょ!」
 わたしが彼の手を引いて走り出すと、お兄ちゃんが驚いた顔をして、虎丸くんが慌てふためくのがおかしかった。
 いつかの冬、フクさんがインフルエンザで寝込んでしまったときには、彼がうちまでごはんを作りに来てくれたこともある。
「豪炎寺さん、こんな台所の状態で、夕香ちゃんに何を食べさせるつもりだったんですか?」
 なんて、呆れたように言いながら、お鍋とフライパンと包丁を同時に器用に扱う。台所に立つ彼は魔法使いみたいだった。
 虎丸くんってかっこいいな、お兄ちゃんほどじゃないかもだけど、と、いつごろはじめて思ったのかは覚えていない。
 気が付けばいつの間にかすっかり男前に育ってしまって、でも虎丸くんは、相変わらずわたしとお兄ちゃんにとびっきり甘いままだ。
「もう5分ほどで着きます。マンションの前まで行くわけにいかないので、少し歩いてもらうことになってしまいますが――」
「いいわよ。べつに電車で帰ってもよかったし」
「それはいけません夕香さん」
 そうよね、お兄ちゃんに怒られるもんね。むくれた気持ちがまだ胸の中にくすぶっていて、わたしは素直になりきれない。どうせこの人、お兄ちゃんのためにわたしを大事にしているだけなんじゃないの。これまで長い付き合いで、決してそれだけじゃないと知っているはずなのに、ひがんだようなことを思ってしまうのを止められなかった。
 でもかわいそうね虎丸くん、そのお兄ちゃんは異様なくらいわたしに甘い。というか、わたしだけに甘い。お兄ちゃんはいつもわたしの話をにこやかに聴いては頭を撫で、なんの記念日でもないのによくプレゼントを持って帰り、ケーキの上に乗ったいちごはいつだってわたしにくれた。
 虎丸くんはたぶん、お兄ちゃんからそんなふうに優しくしてもらったことなんてないはずだと思う。お兄ちゃんはなにしろ世界でいちばん素敵なわたしのお兄ちゃんだから、優しさを少し減らしてみてもいいところはたくさん残るけれど、そうだとしても不思議な話だ。だってお兄ちゃんは、虎丸くんに対してはいつだって冷たいくらいだったから。今日だってほら、わたしのお守りを押し付けられてしまって。
 わたしは仕方なく、といったそぶりで車の後部座席に腰を下ろしたまま、運転席に座った彼の首筋を見る。座席越しにみえる彼の襟足、服で隠れるか隠れないかのギリギリのあたり、……虫刺されみたいな痕って、へえ、そういう感じなの。

 どれだけわたしに優しくても、彼は結局、お兄ちゃんのものなんだと思う。心配性のお兄ちゃんは、どんなにわたしの安否を気遣っていたとしても、わたしのことを自分のものだとは思っていない。目を離せばすぐに消えてなくなってしまうんじゃないかと思っている。小さいころ、事故で生死の境をさまよったりしたことを考えると自然な話かもしれないけれど、最近は過保護すぎて面倒に思うこともある。
 でもお兄ちゃんは、たぶん、この人を自分のものだと思っている。変な言い方になってしまうけど、そうとしか言いようがないと思う。彼という存在は、いつだって自分の手の内に置いておけるもので、勝手に消えてしまうことなんてあるわけがなくて、それどころか捨てても戻ってくる、ぐらいに。信頼といえば聴こえはいいかもしれないけれど、それはきっと、独占とか、所有とか、はるかに性質の悪いものだ。
 血の繋がりのあるわたしと、本来は他人のはずの彼を、お兄ちゃんはどうしてそんなふうに取り違えて扱うことができるんだろう。彼のことを頭からすっかり信じ切ってしまっていると、彼が裏切るわけなんて絶対にあるはずないと思っていると、お兄ちゃんは、自分でちゃんとわかっているんだろうか。
 わたしはきっと、どんなふうにされてもお兄ちゃんを嫌いになったりしない。ある日突然冷たくなっても、姿かたちが変わっても、何か罪を犯してしまったとしても。お兄ちゃんは、世界でいちばん大切なわたしのお兄ちゃんだ。
 だけど、ただの他人が、そんなわたしと一緒だとでも思っているの? ……ばかなお兄ちゃん。

 かっこよくて、優しくて、お願いすればなんだってわたしにくれるお兄ちゃん。でも、一生のお願い、って言っても、お兄ちゃんはわたしにこの人のことをくれるかな。それだけは譲ってもらえない気がして、わたしは勝手に寂しくなる。
 でも、もしもわたしが付き合ってって言ったら、この人はわたしの彼氏になってくれるんじゃないかな。お兄ちゃんのために。
 もちろんそんなの願い下げだ。わたしは、たとえそれがどんなに困難でも、お兄ちゃん経由なんかではなく、自分で最高の彼氏を見つけなくっちゃいけない。

 やがて車は速度を緩め、わたしの住むマンションの近く、人目につかない細い道の途中で路肩に止まった。
「すみません、ここで降りてください。夕香さん、どうか気をつけて」
「大丈夫よ。わたし、どうせ何も知らないんだから」
 また口をついて出るのは皮肉で、今日のわたしはきっとすごく嫌な女の子だ。けれどそれはただの事実だった。わたしにわかるのはお兄ちゃんの気持ちのことだけだ。フィフスセクターで具体的になにをしようとしているのかなんて、ちっとも教えてはくれない。
「……虎丸さん、お兄ちゃんにあんまり無茶させないであげてね」
 車を降りる前にわたしが言うと、彼は苦笑して返した。
「それ、できれば夕香さんから言ってもらえると助かります。俺の言うことなんか、あの人、聴いてくれるわけないですよ」
 それはそうかも。わたしが言えば、考えるふりぐらいはするんだろうな。わたしと一緒。
 お兄ちゃんは意外と意地っ張りで、わたしや彼の前では絶対に弱いところを見せたがらない。だから本当は無理して格好をつけているだけの話なのに、彼は素直に騙されて、お兄ちゃんのことをかっこいいと思うみたいだった。大好きなお兄ちゃんの名誉のために、内緒にしておいてあげるけど、いつか暴かれてしまえばいいのにとも思う。
 わたしたちは役割を分け合っていて、それは決して交換することはできない。だから彼がきっと、わたしのことを少しだけ羨んでいるように、わたしも彼を、ちょっとだけうらやましいな、と思っている。
 そうするのが正しいと思うから、わたしはお兄ちゃんのケーキのいちごは素直にもらう。わたしのお兄ちゃんは、自分だって本当はいちごが好きなくせに、わたしが喜ぶほうが嬉しい、そういう人だ。でもそのとき、きっとお兄ちゃんの気持ちの中に、ほんの少しだけ我慢が残る。それを、わたしにはどうすることもできない。でも彼は――。
「ねえ、ところで、虎丸くんって好きな人はいないの?」
「……いるよ。夕香ちゃんのお兄さん」
 さよならのかわりに昔の呼び方で質問すると、彼は開いた窓越しに同じようにして返した。さっきまでの不機嫌な空気がぜんぶ嘘みたいに、いたずらっぽく笑い合う。同じ会話を、わたしたちは出会ったころから何度も繰り返している。答えはいつも正直で、そういうことじゃないのに、なんて愚かなことをわたしは言わない。
 わたしがその場から家へ向かうのを確認して、車はゆっくりと走り出す。わたしは一度だけ振り向いた。

 ……ねえ、あのね、虎丸くん。

 もう3年も前のこと、わたしのお兄ちゃんは、大事なものを取り返すためにひとりで戦うことを選んだ。お兄ちゃんはきっと、ひとりでも戦えるつもりだった。虎丸くんは、お兄ちゃんのことを勝手に追いかけてきただけだ。
 でもそんな彼の勝手のせいで、お兄ちゃんがどれだけ安心したのか、いま、どれほど彼のことを頼りにしているのか。悔しいから教えてあげないけれど、わたしはちゃんと知っている。世界でいちばんわたしが大事なお兄ちゃんが、そのわたしの世話を彼に任せている意味だとか。
 誰よりもかっこよくて誰よりもわたしに甘くて優しいお兄ちゃん。そのお兄ちゃんに、決してねだらないとわたしがひとつだけ決めているもの。
 わたしが世界でただひとり、お兄ちゃんのケーキのいちごをもらってあげられる大切な妹なら、虎丸くんはただひとり、わたしの大事なお兄ちゃんのために、新しいケーキを丸ごと焼いてあげることのできる人だった。
 急ぎ足でマンションのエントランスを抜け、エレベーターのボタンを押しながらわたしは思う。きょう言いそびれたごちそうさまをいつ彼に言えばいいだろう。わたしだけでなくお兄ちゃんもだ。きっとわたしたち兄妹は、いつか彼に言わなければならないことを、たくさん秘密にしたままで甘やかされている。









12.07.15

BACK